青春の終焉

この本は好きだ。
青春について徹底的に考えたい気持ちになれる。これが「青春とは何か」考えるマイブームを起こしてきたから。

しかし、三浦雅士さんのこの文(恥ずかしながら小説はまだ読んだことない)はとても好きだけど、うーん、予兆ばかりで核論に迫ろうとする予告ばかりをつらつらと説明するから、そこにある大量の文化人の名前やコンテキストにいささか疲れてしまうね。ごめんなさい。

だから、私が一番最高だと思うのは、まだ長すぎない時代愛が少ない「はしがき」だと思う。

面白い文をいくつか引用。
「学生にとって青春とはまず社会的覚醒であり、革命であり、政治的かつ芸術的前衛であり、恋愛であり、その挫折であった。」
「高度経済成長は大学を大衆に解放した。(略)大学生はかつては匿名ではありえなかった。地域においても親族においても匿名ではありえなかった。エリートとはそういうものだ。だがいまやそのほか大勢のひとりにすぎなくなってしまったのである。大学が大衆化すふのいうことじたいが一個の矛盾であり、その矛盾が学生を苛立たせたのである。」
「青春、青年は、もとをたどれば、ユース、ヤングの訳である。それは、YMCAすなわちヤング・メンズ・クリスチャン・アソシエーションの訳語、基督教青年会として1880年代の日本、明治10年代、20年代の日本に登場し、明治30年代には時代の流行語となって全国を覆いつくしたのである。」
「青春という言葉が、一般に広く流布したのは、西洋においてほぼ19世紀なかば、日本においてはほぼ20世紀に入ってからである。小杉天外の『魔風恋風』が1903年、小栗風葉の『青春』が1905年、島崎藤村の『破壊』が1906年、田山花袋の『蒲団』が1907年、夏目漱石の『三四郎』が1908年、森田草平の『煤煙』が1909年。めぼしいものを並べたにすぎないが、多かれ少なかれ青春に取材した小説の、まさに目白押しというほかない。」
「青春の本質はカーニヴァル的なものだ。」

なんか青春よりも、この学生運動時代について興味が湧いたし、ちょっと昔よりは調べたりして、少しづつ寺脇さんが生きてた時代が見えたような気がしました。

でも三浦さん、わたしは青春は終焉したとこれを読んでも思わなかったし、むしろ、青春って再来してんのかなーあるいは一定層いるんだろうなぁずっと、と思ったよ。
そして高等遊民の存在が青春なんだとしたら、それは三浦さんのただ先輩小説家に対する憧れであり、それをよしというのは私はしないと言いたい。青春は文化人のものじゃなくて、誰もが大切な微熱のように体に残るものだと思う。それを胸にしまいながら、時々ヒリヒリと思い出してくすぐったく反省したりするもんなんだと思う!


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