旅をする木 星野道夫

基礎体力の特訓だと思いながら、ただただ勉強するルーティンな毎日を2ヶ月ほど続けている。しょっちゅう閉塞感を感じたり、内発的なエネルギーが切れてしまったように感じる時がある。もうお腹いっぱいで、何も取り込めないぞ、という感じだ。

まさにそんな今日、気分転換にと買い物に出かけたけど、もうすっかり秋物になった服屋さんに気後れして、結局本屋に足が向かった。「文字を読むことよりも、人間に会いたい」と願っていたはずなのに、今日は誰かと夕飯を共にするよりもむしろ、人間に出会えたと思った。そういう本だ。

・・・学問を学ぶことは、答えを探し出すことでもあるけれど、その果てに答えがないことを知ることだと最近思う。限定した時、固有のものについて捉えたとき、確かに法則や解は現れるんだろう。でも数学でさえ、「仮に"1"と置いたとき」という前提のうえに真理があるらしい。じゃあ前提をつくっている世界が一体なんなのかとか、その先に人間とは一体なんなのかということを、ぼんやりと考え始めると、その曖昧さや、複雑さ、しかし単純であることが、知れば知るほど見えてくる。「人間とはこうである」という一つの解はないんだと思う。

「答えがあるはずである」と信じて前進してきた私たちにとって、少し"気持ちの悪
い"とはじめは感じた。今も時々感じる。それでは堂々巡りだし、どうしたらいいかあまりにも無力だなあと。でも歴史を振り返れば、答えがあると思い探ってきたのは近代以降の数百年間だけの価値観で、気持ち悪いという感覚自体が真理ではなくいつの間にか形成された思い込みなのかもしれないと少しだけ思えるようになった。


この本からすっかり離れてしまったように書いてしまったけれど、、この「答えがないこと」をそのまま受け入れながら、しかし些細な変化や心情を見逃さずに対話を続けられる人が、この星野道夫さんなんだと思った。

最近、人を愛して、人について考えること、それが私は信じることなんじゃないかなあと思うようになった。それは特に自然との対峙したときに、自分の心に現れてくる。植物を観察しながら、その無限の美しさにただ心奪われながらも、心奪われている自分の心情を通じて人間という生き様を見る、そういう感じだ。


よくわからないことを書いてしまったけれど、この星野さんエッセイは、ぐうっと鳥肌が立ったり、笑ってしまったり、そして本当に涙が出てくる。遠いアラスカの景色が、星野さんの言葉によってありありと浮かんでくる。奥さんの直子さんが、彼はまだどこかで生きている気がする、というようなことを言っていたけれど、勝手に私にも、アラスカに星野さんが今もいるような気がした。今東京で暮らす私と同じ世界で、地球のあちこちで、何かが起こっている。変わらないアラスカがある。それは何故か心を豊かにする、そういう本だ。

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