境界線の政治学 杉田敦
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(2016年7月6日加筆):さんざんのこの本を受けての議論のなかで、境界線が引かれていることについて問題視し、同時に境界線を取り払うことも不可能であり、そこにも課題があることに触れてきた。
その中で、「多様性」とは境界線をあいまいにしてしまうことだという結論も見えてきた。境界線の内部を肥大・拡大させることは、結果として境界線の内側を誰のものでもないものにしてしまう。内部が多様になるほどに、人はそれを不安に思うことが著しく現れたことに、イギリスの離脱が象徴している。
多様化はいかにして実現できるか、あるいは実現したくなくともボーダーレス/情報化の成長を受けて多様化していくこれからの社会をどうしていくべきか。まだ答えの出ていないこの課題について、真剣に考えることは、21世紀以降の時代を紡ぐことだと思う。どんな問題も今の所ここに集結していて、今の社会構造をどう変化させるかは人間の重要すぎる命題だと日々感じる。
さて、「不安に思わない」あるいは境界線の内部の意味が薄れると起きるのが<シニシズム>である。その内部に留まりながら、それ自体が必要ない、もしくは否定さえしない。これは今の学級で典型的に見られる。外的には先生やそこに同調しながらも、内的には一切同調しない状態である。いい子に見せかけながら、本音が見えずに先生が近年苦戦する生徒の姿は容易に想像できるし、自分が教室に立ったときに一番きついのはこの態度である。その内面化していないことは先生は常に外部であるか、批判・指摘しずらいものでもある。
だとしたら、今の子どもたちがどこで実感を得ているのか?
筆者は、その果てに<炎上>が見える気がした。否定さえしないシニシズムを発揮しながらも、人はおそらく潜在的にリアリティや心の拠り所を必要としているはずである。
「シニシズムというのは、自己自身の虚偽性を自覚した虚偽意識なんです。啓蒙された虚偽意識だと言ってもよい。それは『そんなこと嘘だとわかっているけど、わざとそうしているんだよ』という態度をとるのです。こういう態度には、啓蒙の戦略にのっとった批判は聞かない。(中略)これがスローターダイクがいうところのシニシズムです。」
つまり、ここでのシニスズムとは、外部へ出て普遍性や真理をもとめることが断念され、日常内部の規範やルールの虚偽性、フィクション性を自覚しつつ、冷笑的にそこに居直ることである。」(小玉重夫(2003)「シティズンシップの教育思想」白澤社:66-67)
炎上とは、批判するひとは「そこにいながらも、そこにいない」と自らを位置付けながら、同時に批判する相手に対しては実在を強く要求する行為だ。相手が傷つくほどに相手の「実在」は濃くなって、満たされるような気持ちになるのだと思う。
しかしそれさえも「満たされるような気持ち」という仮想に過ぎず、自らの存在を消すことを利用しながらも、同時に自らの存在を極めて強く欲しているのではないだろうか。
だとしたら、この困った、インターネットにおける習慣を途絶えさせていく、あるいはこれからの子どもが習慣を身につけないようにするには、AL(アクティブラーニング)やPBLといった、インターネットではない場所に、「自らが必要とされていて、自ら存在実感を感じられるコミュニティ(心の拠り所)」があることが、回り道になるようで、答えの一つかもしれない。
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