構造と力 浅田彰
冒頭からしばらく続く、深夜のアドレナリン、ハイテンションのような文が好きだ。大事なことだけを見極めようと、伝えようとする努力が、愛おしい。(失礼かもしれないけど。)背中をシャキッとして、迷わないことを目指したくなる。
一方で内容としては、本当に「近代」は、「パプティノコン的」あるいはジョージオーウェル的なのか、というのは疑問が残る。1983年にベストセラーになった本書から、確かに時代は変遷していて、村上春樹のような社会構造の捉え方も古くて、宇野さんあたりがしっくりくるなあ。
今の国家がもっと脅威に感じるテロが、パリのような個人によるテロであるということは、新しい構造や異質なものが祝祭を生むことはできないが、個人単位に解体された状態で排除が起きているから、逆に個人であるなら一瞬の隙を狙える、という話なのかな。
一方で、「諸行無常」という言葉あるくらいだから、脱・構造らしい近代もいずれは終焉が訪れるのでは?限りなく脱・構造化している姿であろうと、構造であることには間違いないはずだ。
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P3 文・理学部中心−法・医学部中心という対比に、即時充実的−手段的、虚学的−実学的、「象牙の塔」的−「現実主義」的といった一連の対比を重ねてみる。(略)両者のうちどちらを択び取るのか。知のための知と手段としての知、そのいずれをよしとするのか。(略)この場合、いずれの選択肢も全く魅力をもたないことは、一目瞭然だ。(略)肥大した知が、しらずしらずのうちに社会の中で宗教的機能を果たし始めるという逆説にも、あなたは気付いているはずだ。(略)知を手段として軽視するからには、ほかに重視すべき目的があるのだろう。しかし、卒業のための鍼灸、就職のための卒業と、手段−目的の連鎖を追っても、目的はどんどん彼方へと交代し、あとには即時充実的な意味を喪った手段の残骸が連なっているばかり、(略)完成によるスタイルの選択の方が、理性による主体的決断などよりもはるかに確実な場合は少なくない。その意味で、ぼくは時代の感性を信じている。
P5その上であえて言うのだが、ここで「評論家」いなってしまうというのはいただけない。要は、自ら「濁れる世」の只中をうろつき、危険に身をさらしつつ、しかも、批判的な姿勢を崩さぬことである。対象と深くかかわり全面的に没入すると同時に、対象を容赦なく突き放し切って捨てること。同化と差異のこの鋭い緊張こそ、真に知と呼ぶに価するすぐれてクリティカルな体験の境位であることは、いまさら言うまでもない。
🌸P12 過剰を抱えたまま、しかも、象徴秩序の紐帯がゆるみきったところで、じっとうずくまっているのに耐えられなくなったとき、人々は群をなして一方向に走りだす。一方向への絶えざる前進こそ、スタティックな象徴秩序をもたない、と言うより、それを解体し運動化することによって成立した近代社会の、基本的なあり方にほかならない。(略)過程が継続している限り、破局は先へ先へと延期され、人々はかりそめの安定を得ることができる。それだからこそ、人々は究極の目的について問うよりも先に、そのつど前進を続けることを至上命題とするのであり、何ら絶対的基準を持たぬまま、より速く、より遠くまで進むことのみを念じてやまないのである。
P17 異質な体系を突きつけてみても近代社会は微動だにしない。むしろ、近代社会とはレヴィ=ストロースの本を買いパック旅行を買うことで差異な文化との出会いを手軽に体験できるような社会だり、ローカルなパラダイムの相克によって学問の「進歩」を加速してきた社会なのである。(略)してみると、あなたに残されているのは、ひとまず近代を常ならぬ恐るべきものとして引き受けた上で、その内部で局所的な批判の運動を続けるという困難な戦略だけである。(略)恐るべき粘着力を持つドクサの中でそれと格闘し、一瞬の隙をついてそこから逃れ去る、あるいは、それ自体をズラすのである。
🌸P22 あなたの作戦は、地下で隠密のうちに運ばれる必要がある。いたるところに非合法の連結戦を張りめぐらせ、整然たる外見の背後に知のジャンルを作り出すこと。地下茎を絡み合わせ、リゾームを作り出すこと。
そのためには、ゆっくりと腰を落ち着けているのではなく、常に動き回っていなければならない。ワイズになるのではなく、常にスマートでいなければならない。スマート?普通の意味で言うのではない。英和辞典にいわく「鋭い、刺すような、活発な、ませた、生意気な」。老成を拒むこの運動性こそが、あなたの唯一の武器なのではなかったか?これまでさまざまな形で語ってきたことは、おそらくこの点に収束すると言っていいだろう。速く、そして、あくまでもスマートであること!
P23 グラムシス「英知においては悲観主義者、だが、意思においては楽観主義者たれ。」
P78 必然的に外部を伴わざるをえない象徴秩序は、トーテミスムと並んで、周期的な祝祭による過剰の処理というメカニズムを備えることによってはじめて、永く秩序を維持していけるのではないだろうか?
P100 リジッドな枠組みとしての象徴秩序もなければ、それを突き破って噴出する祝祭の混沌もない。すみずみまで脱聖化された同質的空間の中で、市場類例のないダイナミックな運動を続ける社会、それが近代社会なのである。
P115 構造はその外部との緊張を孕んだ相互作用によって姿態転換を行うが、そのとき必ずや新たな残余が生成して外部へと排除される。そうしして排除された部分の抵抗が、また新たな変動をひきおこすことになるのである。
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