都市と地方をかきまぜる 高橋博之
いくつか心にのこったところを書き留めておきます。
昨年グッドデザイン賞をとった「東北食べる通信」発起人、東北開墾の代表高橋さんの本!やっぱり高橋さんは政治家だなあと思った。文章も実はロジックがずれてずれて文章が綴られていて、こりゃ散文!という感じだけど、だからこそ伝わることがある。同じことをくりかえすからこそ、心に届くメッセージがある。話していないのに、まるで畳み掛けられるように向かってくるような、言葉の強さがある。中身としては、斬新というより、確認を何度もするつもりになる本だった。
以下メモ。
・「苦しいときにこそ欲は出てくる。でも絶対に欲は出すな。」という漁師さんの、海との向き合い方のことばにはっとした。
・「二枚目の名刺をもつ人が増えている。お金をそこで稼げないので本業をしながら、世の中によりよい価値をつくる仕事に携わっている人が増えている」という話。ふと見渡すと、私のまわりには、その世の中の価値をつくることを本業として仕事とする人がとても多く、そして既にお金よりも価値があると誇りをもち、そして当たり前だと捉えている人が多い。それは本当に恵まれていると思った。沢山の人が時代とともに気づいてきたことを、前提として立てることは、感謝を感じるなあと思う。
・「慶応大学のゼミ(おそらく自分のゼミだろう)で話して気づいたこととして、都内の私大の出身地は、昔に比べてかなり都内・都内周辺の出身者が多く、より地方と都会が分断されている」という話。感覚として納得できたし、慶応にいながら感じる違和感は、これかもしれない。あまりにも生粋のシティボーイ・シティガールが多い。
→実際にデータをエクセルにしてみたら、やはり高橋さんの言う通りだった。(が、グラフにする方法はわからずに断念。w) 地域ごとにみると、過去15年で半減以下の地域もあった。多様性はたしかに昔よりも奪われている。
出展:https://www.yozemi.ac.jp/nyushi/data/keio/keio_data_4.html#data
・“そもそも「ふるさと」とはなんだろうか。...私はふるさととは何かと問われれば、「海と土」だと言うようにしている。私たち人類は海から生まれ、今なお海と土からできる食べものを食べて生命と身体を維持できている。死ねば火葬されて灰となり、海と土に還る。いわば海と土は生命のふるさとなのだ。”
これはすごく共感。日本とは、社会とは何かと考えるほどわからなくなるけれど、自分のふるさとは何かと思うと、地域というより「土」と、「生命の過程」だと思う。最近、自分の信じているものが何なのかをずっと考えていて「アミニズム」だと今は仮に答えをだしている、そういう感じ。
なぜなら名古屋の中途ハンパな場所で生まれて、東京よりはかなり田舎だけど、噂のスピードがSNSより早いなんてほどの地縁血縁、濃いつながりもそこまでなく、東北のような民芸も、中国・九州の製鉄のような部落も集落も、自分には内在されていない。なのに、日々のしがらみとは別に、なんとなく都会よりも地域の生き方やそのベースに共感するのは、自分が百姓の孫であるから、米ができる過程を知っていて、土を触って育ち、自然の四季を細かく知っているからなんじゃないか。私にとっちゃ鶏の解剖もそりゃそういうものだ、という気持ちになるときの、説明できないあの気持ちとか。
・・・高橋さんの言っていることは、それに近しいんじゃないか、というか。東京や東京生まれの人と、うまく説明できないけれど感じるベースの差異のような違和感は、この一文がかなり近くまできているなあという気がした。
・「共感と参加」のマーケティグは、すごく分かるけど、その文脈で語られていたこととして、「リアリティの崩壊という目に見えない化け物と向き合わざるえなくなっている」というより、今の時代は、大きな物語が信じられなくなって、虚構を信じる20年間があって、今もう一度よりリアリティが求められているという論の方が、同意できる。リアリティはすごく身近なところでしか感じられないから、余計に身近以外に目を向けられないんじゃないかと思う。見ず知らずの、想像の外側の「他者」へどう関心を持つかが最近のテーマです。
・“子どもを産み育てることの価値が昔に比べて下がり、そうした生き方も選択肢のひとつとして社会に許容されつつあるということを、この調査結果は示している。そして、この数字の裏には、自分たちの思い通りにならないものへの拒絶、敬遠があると私は思うのだ。”
子どもを出産したいか、という希望が明らかに減少しているというデータからの高橋さんの考察。これは説得力ある。。悲しくも、ぞっとするというか。
以上!
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